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大戦後のドイツとフランス

敗戦国ドイツでは、ヴァイマルにおける国民議会でヴァイマル憲法が採択され、ヴァイマル共和政が成立した。ヴァイマル憲法は、史上はじめて社会権を定めた当時最も民主的な憲法だったが、共和国がヴェルサイユ条約を受け入れて過酷な軍縮を行ったことは、急進的右派勢力などから激しい批判を受けており、一部の軍人はカップ一揆を引き起こした。1921年には、連合国によるロンドン会議において1320億金マルクという巨額の賠償金が定められた上、オーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票において、ドイツ帰属が多数(60%以上)だったにもかかわらず、地下資源が豊富な地域がポーランドに割譲されることになり、ドイツ国民のヴェルサイユ体制への反感は高まった。

ドイツは、巨額の賠償金に対し、その支払い延期を要求したが、フランスは賠償不履行を理由に1923年1月ルール工業地帯を軍事占領し、これに対する労働者のサボタージュもあって生産は極度に低下した。他方政府は紙幣を乱発し、23年10月にはマルクの価値が約1兆分の1になるというおそるべきインフレーションを招いた。各地で暴動が相次いだが、アドルフ・ヒトラーのミュンヘン一揆もその一つである。

1924年、ドイツはようやくドーズ案を受け入れ、信用の裏付けのある新紙幣レンテンマルクを発行して戦後インフレを克服し、アメリカの仲介で賠償支払いの軽減し、アメリカ資本の導入による経済再建をはかった。外務大臣グスタフ・シュトレーゼマンは協調外交を展開し、ロカルノ条約を結んでフランス・ベルギー国境の不可侵を約束し、1926年には国際連盟に加盟した。

一方、国土が戦場となったフランスは、戦後もドイツの大国化をおそれ、上述のように賠償支払いをきびしく要求し、レイモン・ポアンカレの右派内閣のときにはルール占領を断行した。しかし、対独強硬外交は国際的批判をあびて失敗し、1924年左派連合政権が登場した。25年に外相となったアリスティード・ブリアンはロカルノ条約によりルールからのフランス軍撤兵などを行いドイツとの和解につとめ、1928年にはアメリカ国務長官フランク・ケロッグとともに不戦条約を主導して国際協調に貢献した。

大正デモクラシーと相次ぐ恐慌
第一次世界大戦により、欧州諸国が軍需生産に傾倒せざるを得ない状況があり、日本は欧州やその植民地に工業製品を輸出する状況が生まれた。重化学工業が進展したのもこの時代である。日本は大戦景気に沸き、一気に債権国となって市井には成金が生まれ、はじめて工業生産が農業生産をうわまわった。しかし、第一次世界大戦が終わると、欧州諸国が工業製品の生産を再開したため、国際競争力に欠ける当時の日本は生産過剰に陥り、戦後恐慌が始まった。

第一次世界大戦では、連合国側は大戦を民主主義(デモクラシー)と専制主義(オートクラシー)との戦いであると意義づけた。こうした事情のもとで、大戦中から世界的にデモクラシーの気運が高まった。

1916年、吉野作造はデモクラシーを「民本主義」と翻訳したうえで、民衆の利益と幸福をめざした政治を進める必要があると主張した。彼の説く民本主義は、知識人はじめ言論界でも広い支持を集め、藩閥・官僚・軍部など特権的な勢力による政治を批判し、議会中心の政治を確立しようという動きを方向づけた。このような新しい政治思潮を大正デモクラシーという。

関東大震災(横浜市寿小学校ヨリ展望)こうしたなか、寺内正毅内閣が総辞職すると、元老たちも政党内閣でなくては国民の支持が得られないと判断し、1918年、「平民宰相」原敬による本格的な政党内閣が成立した。原は、選挙権の拡張などを行ったが1921年、東京駅で暗殺された。原の後継となった高橋是清内閣は短命に終わり、以後、2年間非政党内閣が続いた。一方経済面では戦後恐慌の痛手が回復しないまま1923年に関東大震災が起こり、それに端を発した震災恐慌が追い討ちをかけ、不良債権が銀行に蓄積され、このときの震災手形はのちの金融恐慌の原因となっていった。

1924年清浦奎吾内閣が成立すると護憲三派は第二次護憲運動を進め、加藤高明を首相とする護憲三派による政党内閣が復活し、幣原喜重郎による協調外交と軍縮政策を進め、1925年、普通選挙が実現した。その結果、25歳以上の男性には、納税額に関係なく選挙権があたえられ、約300万人だった有権者は4倍の約1,200万人に増大した。この結果、政治の民衆化は進展したが、女性の参政権は認められなかった。
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1927年、第1次若槻禮次郎内閣の大蔵大臣片岡直温の失言により、金融恐慌が発生したため、後を継いだ田中義一内閣の蔵相、高橋是清はモラトリアムを発動し、事態の収拾を図った。銀行の倒産が相次いだため、預金が三菱・三井・住友といった財閥に集中していくようになった。

この時代にはまた、女性の職場進出が進み、都市問題・住宅問題・労働問題が生ずるとともに義務教育就学率が99パーセントをこえ、高等教育も充実して知識層が増大し、社会における中間層が形成された。ラジオ放送が開始されるなどジャーナリズムがさらに発達、また、大衆雑誌、文庫本、円本などがさかんに出版され、日本でも文化の大衆化がすすんだ。

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2009年03月08日 10:12に投稿されたエントリーのページです。

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